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コラム vol.94 2015.1 発行

<第94回>ALSと共に生きて考える :Ⅰ 発症 9000 そして病院探し



ひとりひとりの患者さんのDNAが違うように、この病気の発症の仕方、痛みというより筋肉が動かなくなる具合や進行の経過も全く違います。十人十色、ですから私の経験はほんの一例に過ぎない点を前提にお聞きください。

ALSを発症してから19年になります。それは病気と思えない位の微かな異変で始まりました。毎朝、歯磨きをする右腕が上がりにくいのです。
それは1995年1月。その時65歳でした。ご存知のようにその年は阪神大震災や地下鉄サリン事件が立て続けに起き、多くの命が奪われた時なので印象は鮮明に残っています。
始めは遅くやってきた五十肩と安易に思っていましたので、それからの一年間、恒例の春スキーを北アルプスで楽しんだり、妻とのドライブ旅行も欠かすことはありませんでした。職場の近くの形成外科にレントゲン診断をしてもらいましたが同じ結論でした。
当時私はテレビのニュースや番組のプロデューサーとしてたびたび海外へ出かけていましたが、何の支障も無く仕事をこなしていました。

その年の夏ごろ、朝日新聞は一面に大きく日本におけるALS患者の実態についての記事を掲載したのを記憶しています。全国で患者四千人という大見出しのその記事は、この新しい難病が原因も治療方法も判らないこと、呼吸器を着けなければ生きられないこと、衝撃的でした。しかし、これを読んでも私は他人事としか考えず、いずれテレビのネタになるだろうくらいしか思いませんでした。よもや一年後にこの病気の告知を受けるとは予想もしませんでした。
小題に掲げた9000という数字は何なのかはお分かりでしょう。それは厚生労働省が昨年発表した全国のALS患者の数で、この15年間に2倍強も増えたことを示しています。完治することのない出口のない病気の宿命でしょうか、今後も一方的に増え続けるに違いありません。このことについては後ほど改めて述べたいと思います。

その後一向に病状はよくならず暮の12月に友人の紹介で横浜の信頼できるA整形外科に入院し、本格的な検査を受けることにしました。脊髄から採った液を検査し筋電図を数回採るなど、整形外科医として精一杯やってくれました。しかしその結論は、神経系統に何らかの問題がありと言う診断で、その道の権威である東京のB病院神経内科医師への紹介でした。期待を抱いて出かけたB病院の対応は意外なものでした。面会した医師は、持参したカルテを見、私の説明する病状を聞いた後、診察もせずいきなり「御自宅の近くの病院を選んだらどうか」と提案したのでした。この唐突な提案は、いきなり門前払いを喰らわされた感じを受けましたが、医師に反論できず引き下がるしかありませんでした。今になって思うのは、折角優れた良い病院と出会いながら、「距離」だけの理由で診断を受けるチャンスを逃したのは残念でなりません。良き治療を求める患者家族の願いは千里の道も遠くはないと思うのが普通ではないでしょうか。

ところがこの話はまだ終わっていません。一昨年、B病院の元院長がALSの調査のことで我が家にお見えになる機会がありました。そこで16年前の一連の経緯についてお話したところ、元院長はやや怒りをにじませながら「それは残念なことでした。どんな医師でした?そいつは」という答えが返ってきました、これで一件落着でしょうか。
その後同病院は変ったようで、今ではALSの拠点病院として立派に機能し活動していると聞いています。

突然沸いた三つ目の病院探しは早く決まりました。それは家の近くにあるC病院でした。神経内科があると言う理由で決めました。この通院の期間中、病状は進み私は連続して病院の廊下などで転倒を繰り返していました。やがて入院日数も重なり、さしたる治療もなされないので、妻と私は今までの検査結果から診てどんな結論か、病名も教えて欲しいと担当医に要求しました。
しかし、すぐには回答はありませんでした、病院側は患者には告知を行わないことを申し合わせていたと言うのです。理由は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)は余りにも残酷でショックが大きいからと言うのでした。そればかりか退院後の在宅療養について訊ねたところ、当院はそんな事を扱っていないという返事でした。患者の治療や療養についてのプランや方針がないというのには唖然としました。数カ月通った挙句の結論がこんなことになるとは誰が予想できたでしょうか。以上述べました二つの病院は、患者に対してどの病院が良いかという情報すらくれませんでした。この様な対応は医療機関としての在り方に問題があると今でも思っています。

このような病気についてお先真っ暗な状況の中で、唯一私の支えとなったのは病気についての各種の情報でした。近くの地域で働く、妻の友人で秋田出身の看護師さんから、当時日本ALS協会会長の松本さんの話を聴かされました。秋田で呼吸器をつけて大規模経営の米作りをしていると言うのです。新聞の切り抜きも見せて貰いました。その他患者さんの闘病の手記なども読み漁りました。これらの情報は滅入る私を少しづつ勇気づけてくれました。でも私は検査中でまだ病名も確定してない段階だったので、それ以上の行動、例えば秋田まで出かけて直接会って話を聴くとかはしませんでした。しかし、創立して間もなかった日本ALS協会事務局と連絡を取り情報を取ったり出版物を読んだりしていました。そうして私の何としても生きようという意欲は少しずつ固まっていきました。

次回は連載の第2回目「Ⅱ 四番目の病院と告知」です。ご期待ください!(TK)