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コラム vol.96 2015.3 発行

<第96回>ALSと共に生きて考える : Ⅲ 訪問看護との出会いから気管切開まで



ALSと本格的に取り組む覚悟を決めた私達は、1996年末、住まいを相模原市に移しました。もう後には引けない背水の陣と言った趣です。年が変わった1997から相模原市の訪問看護ステーションは週一回の割合で訪問看護師さんを派遣して来ました。

1997年夏、7月上旬の朝、看護師さんはいつものように世間話から始まり体温、血圧、脈拍を測りました。終えた後、じっと私の顔色を窺いながら睡眠や体の具合はどうですかとか訊ねました。私はその頃夢なのか幻覚なのか分からない奇妙な“空中に浮遊する”映像を見る癖がついていました。そのベテラン看護師さんは、うつらうつらしている私の顔を見て危険な兆候と判断したのでしょう、いまでこそパルスオキシメーター(脈拍と血中の酸素濃度を測定する器具)という便利なものがありますが当時は様子から判断するしかありませんでした。そして直ちに入院の手続きが取られました。危機一髪だったと思います。ALS患者の多くは呼吸が苦しくなってから病院に担ぎ込まれる例が多いのです。

その後数日して病院で昏睡状態に陥ったのですから。この事実はベテランの持つ観察力が遺憾なく発揮された結果を示しているのではないでしょうか。これこそが訪問看護師に求められる資質だと思っています。緊急入院した私の幻覚症状はまだ続いていました。そして四日目に昏睡症状を起こすのですが、耳元で私を呼ぶ声が断続して聞こえました。そして急に口をあけられ異物が強引に入りこんできました。それは呼吸停止した患者に行う挿管という初歩的な処置なのですが、昏睡以前に知らされていなかったので猛烈に抵抗しました。そのうちに意識を失い一晩過ごしたようで、眼を醒ましたのは翌朝でした。

そこには懐かしい家族や担当医の顔、それに九十を越える母親の顔もありました。醒めた直後は事情を飲み込めなかったのですが、時間が経つにつれ自分は生き返ったのだという実感が胸を締め付けました。涙こそ出ませんでしたが、それに近いものがありました。感謝と感動でしょうか、今でもあの瞬間が脳裡から離れません。
口の中に突っ込まれた管の先にはどっしりした呼吸器がつながれていて、赤い数字が点滅していました。これからはこの呼吸器に従属して生きていくのかと、将来像も描けないこともあって少し悲感的な気分にもなりました。こうして一週間を過ごして気管切開を迎えるのですが、それまでのこの期間が一番つらく疲れた時期でした。
体力の快復を待って気管切開は行われました。1997年7月25日。手術は比較的簡単に終りましたが、67年間使ってきた声との決別の日となりました。

それから17年間、呼吸器は掛け替えの無いパートナーとして四六時中密着して空気を送り込んでくれています。いびきのような器械音が欠点と言えなくもありません。しかし一呼吸五秒の間隔で600ccの空気を送り込んで来る正確さは抜群で、私は彼を体内時計として利用し、とても役立っています。これぞ文字通り息のあった仲間と言えるかもしれません。五年前ですが、この呼吸器の吸気量を560ccに減らしましたが今のところ血中の酸素、二酸化炭素とも正常値を保ち問題なしで過しています。しかし機械ですから百パーセント安全かと云えば、さにあらずで、真夜中にけたたましいアラームによって起こされることもあり一刻も介護の氣を抜けないのに変わりありません。当時は呼吸器とカニューレ(体内に挿入する管)とのジョイント部分が今のように安全用のストッパーがついてなく、良く外れ危機一髪の時が何度もありました。

次回は連載の第4回目「Ⅳ コミュニケーションとパソコンと文字盤」です。 ご期待ください!(TK)